No.317 彼と猫と鏡

 

 

彼が朝起きて 顔を洗い

シェービングクリームを塗って 髭を剃る時

窓の外からの陽射しに欠伸をする猫は

鏡の前に行って 鏡の中の猫にひと鳴きする

 


鏡の中の彼が別人のようになると

猫は決まって驚いた顔をする

餌をボウルに入れて 車の鍵と煙草を持ち

ドアを閉め 静まり返った部屋で猫がまたひと鳴きする

 


彼はエンジンをかけて 煙草に火を点ける

古ぼけた音楽が鳴ると 片手でハンドルを切りながら

少し開けた窓から入る風を浴びる

赤信号に捕まると 止まった車は喉を鳴らす猫のようだ

 

 

「猫はタイヤを擦り付けて コンクリートを削る

    彼は猫に乗って 海まで走っている

    車は残された部屋の中で 餌を探して暴れている

    倒れた掃除機が ボンネットに当たって凹む」

 


信号が代わり 暫くして 彼がそんな冗談を考えていると

目の前を通過する老人が見え

ハンドルを切り 避けたは良いが 減速出来ず

ガードレールをぶち破って 崖の下へ落ちていった

 

 

鏡の中の猫は 猫に言った

「たった今 お前の主人が事故を起こしたぜ」

猫は健気にも言い返した

「そんなことありえない! 僕の相棒は完璧だ!」

 


すると鏡の中の猫は 鏡の中の世界を伝って

彼の車を見えるように反射してやった

猫は 崖の下に突っ込んだ ぺしゃんこの車を見た

本当のことを知って ひとつ小さく喉を鳴らした

 


「だから言っただろう

    全て本当のことだぜ

    別にお前を傷付けるためじゃない

    あの人間は もう死んだかもしれないな」

 


心細くてたまらなくなり 猫は家を出ようとした

でも鍵を開けるほど頭が回らず

窓ガラスに花瓶を倒して なんとか割れて

彼の元へ駆け出した

 


すると 先ほど彼が避けた老人が通りかかり

持っていた杖で 猫を何度も何度も殴り 殺した

老人は細長い煙草を取り出し 銀のライターで火を点け

ひと仕事終わったあとのように 満足気に深く深く吸って吐いた

 


老人は 止めてあった車のサイドミラーを食い入るように見て

鏡の中の老人に話しかけた

「あの気取った男と小汚い猫は 一体何をしたんだ?」

鏡の中の老人は 何も答えず 不敵に笑っていた