No.536 彼の過ごした夜は微糖

 

 

ベンチに置いた缶が 再び手の平に触れると

彼は少し前の出来事を思い出した

百二十円を自販機に入れる瞬間

誰かが彼を 呼んだ気がした

 


振り返ってはいけないと思い

彼は振り返らずにその場を去った

公園のベンチで寛ぎながら 後悔して

自販機まで戻ろうかと考えた

 


それは知人の声だった

口に広がるコーヒーの香りと

心地良く吹く夜風のせいで

寂しくなった心が 知人に会いたがった

 


彼の吸う煙草が 口元に灰を寄せたので

半分残した缶の中に入れた

ジュッと音がした瞬間に

知人の名前の顔も 煙草の火も消えた

 


彼に声をかけた知人は

無視をされても大して気にしていなかった

気が付かれないことには慣れているし

彼が振り返っても それはそれで気まずい

 


彼の知人は 夜を散歩して

道ゆく人たちに声をかけたり手を振ったりした

無視をする人が殆どだったが

一人の女は それに気が付いた

 


女は恐怖のあまり 声が出なかった

彼の知人は嬉しく思い 近寄って

透き通るような 少し肌寒くなるような声で

「気が付いてくれてありがとう」と言った

 


彼は公園にあったゴミ箱に

灰皿になったコーヒーの缶を捨てた

彼の知人は 女の元から去った後

そこにあるだろうという場所を目指した

 


彼が自宅に帰ると 家具たちは喜んだ

ソファに寝そべると ソファは彼に頬擦りした

心地良い夜 網戸にしたままで

ぐっすりと眠った彼は 穏やかな寝顔だった