No.517 古い平屋に住んでいた彼!

 

 

彼は古い平屋に住んでいた

当時 築七十年以上のボロ屋だ

所々 隙間風が吹くほどガタがきていて

ムカデなどの虫がよく入り込んで来た

 


庭には 誰も手を触れない庭があり

伸び切った草が腰の高さまで成長していた

夏に三十センチほどのミミズが現れて

彼は気味が悪くて しばらく近くを通れなかった

 


その庭の向こうに 大きな倉庫のトタンの壁があり

反対側の壁の隙間から 中に入ることが出来た

入り口はいつも鍵がかかっていたので

彼と友人たちは 内緒で侵入して遊んだ

 


彼の家の前には雑な作りの物置があり

そこには古い木製の台車があった

彼の家は とても急な坂の下にあったので

坂の上から台車に乗って走る遊びもした

 


隣には身内の婆さんが住んでおり

漫画を読んだりしに行くことも多かった

婆さんは時代劇かサスペンスを見ていて

銀紙で包まれたツナのお菓子が常備されていた

 


彼はいつも 家に帰ってリビングに座ると

そこから見える大きな蜂の巣を眺めた

何十年も前に駆除された名残だろう

死んでいる蜂が 何匹もビニールの中に居た

 


いつか動き出して 羽音が聞こえるだろうかと

彼は耳を澄ませたりしてみた

それに飽きると 巨大なパソコンのワードで

ファンタジー小説のようなものを書こうとした

 


風呂はいつも壊れていて

台所はいつも溢れていた

何日も身体を洗えなかった時もあり

何回も食事を与えられなかった時もあった

 


しかし そこでの数年が過ぎ 引っ越して

ある程度成長した彼が古い平屋の前を通ると

新しい家が建っていて 痕跡すらなかった

彼はなんとも言えない気持ちを抱えて帰った

 


新しく住む家も さほど綺麗とは言えなかった

ただその平屋は その倍以上も汚く 腐りそうだった

また時が経ち 忙しく過ぎる時間の流れの中で

彼は ふとその頃を思い出すことが多くなった

 


しかし 今となっては

あの気味が悪かった巨大なミミズも

大きな倉庫も 古い台車も 

何十年も前の蜂の巣も 蜂の死骸も

 


パソコンの中に閉じ込めたファンタジー

壊れた風呂も 溢れた台所も

クソみたいな青春の中で干からびていった

母親の汚い歯並びすらも

 


彼にとっては とても軽くなってしまった

履いて捨てなくても 風に飛んでゆくほどに

蒸し暑い夏の日に切り取られた鮮やかな緑色と

燻んだ茶色は 遥か彼方へと運ばれてゆくだけだ