No.365 草原

彼はいつまでもここに居たいと思った
朝日から夕日まで オレンジと青の空を眺めた
草原は柔らかく カーペットより心地良く
彼のそばにあり その一つ一つの草を撫でた


夜になり 星が出ると 彼は家へと歩いた
そのままにしてある写真立てが
食器が 戸棚が 静かすぎる二階が
物悲しく 彼へ訴えかけてくる家へと


彼はソファに深々と座り ため息をついた
電気を付けるのを忘れて 部屋は真っ暗だった
煙草を取り出して 咥え 火をつける為に
ライターを取り出すと 記憶が蘇った


手が震え 煙草とライターを机に置いた
その記憶の一日を 断片的な幸福を
彼はいつも 鮮明に見たいと思ったが
その記憶は抽象画のようなソフトフォーカスだった


光が動いている 二つ いや 三つ
聞こえる微かな歌声 好きな歌だ
揺れて 一つになり シャッター音が聞こえる
そこで記憶が終わり 暗闇が彼を迎えた


涙が一筋 頬を伝った
心は暖かさと冷たさを同時に感じた
それから 空洞になっていった
彼は その空洞に入っていった


ライターを擦り 煙草に火をつけて
彼はまた ため息をついて
窓から見える星々が あまりに遠く感じて
外へと出ようかと思ったが 睡魔が襲った


翌朝 ソファで寝ていた彼は
何度も何度も鳴っているベルに気が付いた
訪問客は彼の知り合いだったが
決して 彼を心配するような人間ではなかった


あらゆる不平不満を言われ
疲れ切った彼は ベッドへと向かった
残っていたウイスキーを飲んで
昼が過ぎるまで眠りに落ちた


目覚め 具合が悪く 吐き気がした
トイレへ行って 全てを吐き出した
一方的な不平不満や 訪問客のにおい
そして それを嫌悪する感情 色々なものを吐いた


それから また草原に行きたいと思い
外へ出て 相変わらず美しい場所で座った
ここに来ると忘れられるものは
不思議と 彼にとってかけがえのないものだった


一つの草が 彼にもたれかかった
根っこが地面から出てしまっていた
彼はそれを植え直して その上に座った
また草が抜けてしまったことを 彼は知らない


星空出て来た 今日はそこで過ごそうと決めた
星が 昨日よりは近くに思えた
相変わらず 空洞の中に入り込んではいたが
彼は少しだけ 自分が救われていると感じた


朝日が昇る前に 彼は家へと戻った
掃除機が 冷蔵庫が 電子レンジが 換気扇が…
また 記憶の一日を 断片的な時間を
良く見ようとして 目を細めた


光が動いている 二つは忙しない
一つは 大きく ゆったりとしている
近づくと 触れそうな気がする
手を伸ばし 光に乗る影が 髪の毛だとわかる


彼の手は 壁にぶつかった
かけてあった下手な絵が落ちて
大きな物音を立てて 記憶を打ち消した
指先は 悲痛なほど痺れた


朝日が昇った 彼は煩わしいと思った
ベッドに向かい 眠り 小鳥のさえずりの中
記憶の中へ入ろうとしたが 思い出せなかった
三つの光は 気まぐれに 彼の前に現れるだけだ


起きると夜になっていて 部屋は真っ暗だった
ベッドの上に座って 煙草を吸った
窓に雨がぶつかり 音を立てていた
彼はそれ以来 草原へ行くのをやめた