No.346 絵の具とマグカップと 板になった床
マグカップが割れていた
床には小さな凹みがあった
衝撃がどれほどだったか
その凹みを見ればわかった
絵の具はチューブから身体を捻り出して
マグカップの破片をゆっくりと時間をかけ
床に塗り込みながら 可哀想なやつだと思い
出来るだけ大きな声で鎮魂歌を歌った
絵の具が マグカップの破片と一緒に
床で「コーヒーの入ったマグカップ」の絵になるまで
椅子や机は黙って見つめていた
絵になった後は その絵を見つめていた
「コーヒーの入ったマグカップ」は
作者不明のアート作品としてバンクシーの横に並び
ある有名なハリウッドスターが買い取るまで
あらゆる人が 「絵の具」と「マグカップ」と「床」を見た
床は 作品になるために板になっていたが
自分のことを板だとは思っていなかったので
額に入れられて 豪邸のリビングにかけられると
くすぐったくて仕方なかった
割れた マグカップの破片は
自分が生きているのか死んでいるのかもわからず
芸術的に マグカップを再生した絵の具は
乾くと 何も考えられなくなってしまっていた
嬉しそうに「コーヒーの入ったマグカップ」の絵を眺め
極上の酒を飲む 綺麗な顔の人間の前で
板になった床がもじもじと恥ずかしがるだけで
マグカップも絵の具も 何も話さなかった
ハリウッドスターが酒を飲み終わると
寝室に行き 部屋を暗くした
やっと開放された板になった床は
二つに話しかけてみた
「あの人間は なぜお前らを見ると思う?」
問いに答えはなかった
「ああ お前らが話してくれればな」
板になった床は 床だった頃を思い出していた
翌朝 起きてきたハリウッドスターは
やっぱりその絵を眺め 嬉しそうにしていた
板になった床は 少しこの人間を好きになった
そうして 何年も 何十年も 同じ場所にかけられた
ハリウッドスターが死ぬ時
彼と家族同然になっていた板になった床は
涙を止められなかった その涙に流されて
「コーヒーの入ったマグカップ」は 消えてしまった