No.600 600回分の腕と目

 

 

600回分の別れを取り戻すために

彼に出来ることは何もない

誰も気が付かないで 通り過ぎてゆく

むしろ それが心地良く感じるほどに

 


詩を書くために 腕を付けられて

詩を読むために 目を付けられて

必死に書いても 必死に読んでも

彼の生活が 変わることはない

 


今日は十分に疲れ果て

電車の中のスーツどもと 制服を睨みながら

目的の駅まで待ち続けている

ふくらはぎには 熱風が出続ける

 


600度の風で 溶けてしまいそうになった

電車も溶けそうで 悲鳴を上げていた

彼の周りの人々も簡単になくなって

スッキリとするのかも知れない

 


詩を書くために 付けられた腕を取り

詩を読むために 付けられた目を取ると

ドアが開く時に 外に蹴っ飛ばして

くだらないことで 頭の中を満たした

 


今日は何にも出来なかった

疲れだけがくっきりと彼に痕を残した

目的の駅の手前で ぺしゃんこになりそうだが

彼の生活が 変わることはない

 


600回分の出会いを取り消すために

彼に出来ることは一つしかない

誰も気が付かない場所で胸を突き刺す

やがて それが当たり前に思うほどに

 


詩を書くための 腕を失った後でも

詩を読むための 目を失った後でも

彼は書き続け 読み続けている

ふくらはぎは くだらないことばかり言っている

 


今日はもうそろそろ死んでいく

そのことに心から安堵しながら

目的の駅に着いて 荷物を持ち上げる

彼の生活が 変わることはない

 

No.599 ころころ転がる彼!

 

 

駅のホームに立つ 彼の行き先は

彼自身にもわからなかった

それでも電車を待っている間だけは

周りの空気に溶け出せるような気がした

 


夕日が差し込んで 彼の足元を照らしている

光に怯えてうずくまる影が 彼の元へ逃げた

彼は足踏みをしながら 影を避けた

電車がやって来て 飛び乗った

 


彼の周りに人が多くなると

無性にさっきまで立っていたホームへと

戻りたくて仕方がなくなって

心細くてたまらなくなって

 


吊り革の軋む音で ズタズタにされて

細切れの一片になった彼は泣きじゃくってみた

ただ 細かくなった方が 紛れ込める

少し安心した彼は もっと小さくなろうとする

 


電車の中で パチンコ玉が転がり

それは乗客の足に当たって 行ったり来たりしている

そのパチンコ玉から彼の姿に戻る頃には

きっと 電車は基地に帰って眠っているだろう

 

 

No.598 シェイカー!

 

 

涸れた喉を潤して 彼は溶けて消えて

水が流れて 吐き出され 掃き溜めの中へ

許されない罪を数え 引き金を探せ

夜は長くて短い ジーンズのポケット

 


スモーキーな街に現を抜かし

出迎えるあいつのニヤケ面

裸の女たちの行進を眺めては

涎を垂らす良い加減な奴ら

 


彼は全てに敵意を剥き出して

流れ着いた排水溝の中

悪態吐きながら フラスコを振って

自分を一滴 薬品に垂らした

 


モクモク上がる蒸気で 緑色の毒で

街中の奴らが 彼のように水になった!

洪水の警報は 誰にも聞こえない

混ざり合い過ぎて 誰が誰だかわからない!

 


「ふざけるな 俺はただ一人で

 二日酔いと寄り添って生きたいだけだ

 ふざけるな お前らを道連れになんて

 してやるものか してたまるか」

 


結局のところ 彼はわかっていた

自分には何が足りないのかを

奴らと彼の意識が混ざり合う時には

街は水に沈み 彼は誰でもなくなった

 


飲み込まれて 飲み込んで

混じり合うと 刺激が走った

かつて人だった水は

街を飲み込み 誇らしく笑った

 

 

No.597 黄昏る彼!

 

 

不規則に並ぶマッチ棒を

規則正しく変えるよりも 集めて捨ててしまいたくなった

1カートン分の退屈を

こんな形で過ごすとは思わなかった

 


彼はすることを探していた

生きる意味なんてものは初めからなかった

何かをしていれば落ち着くと思った

そして大量のマッチ箱を買って来た

 


初めはピラミッドやマチュピチュを作り

飽きたらそれを壊す遊びをした

無性に吸いたくなった煙草を節約するために

大掛かりな罠に 自らを落とした

 


2週間ぶりに見た太陽が

まさしく他人の顔をしていたので

無数のマッチの中から一つ

擦って 煙草に火をつけた

 


おそらく来週あたりには

銃弾を買ってくることになるだろう

ロシアンルーレットには終わりがある

(それまで思う存分 退屈していよう)

 


彼の友人が遊びに来ても

彼はマッチ棒の上で黄昏ていた

昼間から 夕日を見るような彼に

友人は 愛想を尽かしていくしかなかった

 


誰もいなくなった部屋の中で

リボルバーの穴を指でなぞった

彼の退屈は重たくのしかかって

マッチ棒のように 時をメキメキと折った

 


彼の計画が全て上手くいったところで

友人はどうでも良かった

そんなことよりも 今日も良い天気なので

いつもより少し高い昼食を食べようと思った

 


友人が彼を思い出すときには

必ず彼は 黄昏ていることだろう

何かに酔うように 遠くの部屋の壁を眺めて

影になったヤシの木が いつまでも揺れている

 

 

No.596 夜更かしのロマンス

 

 

頭の中で響いている言葉

「もしも君が居なくなれば」

彼の嘘で傷付いても

彼女は 笑って許した


パズルのピースよりも

ネクタイとスーツよりも

革ジャンにスウェット姿の彼が

何よりもぴったりはまっていた


形崩れした憂鬱を

着こなす彼の少し先に

ほんのりとした光のように

佇むのが彼女だった


失うわけがないと思っていた

何よりも恐れていたことは

彼の頭の片隅に追いやられて

いじけて指を加えて待っていた

 

 

頭の中で響いている言葉

「もしも君が居てくれれば」

彼の本当の気持ちを伝える前に

彼女は 風になって消えた


ピアノの演奏に混じる叫び声よりも

細い腕で殴り合いの喧嘩をするよりも

生真面目な時計を見つめている彼が

何よりも 何からも ずれていた


脱ぎ捨てた憂鬱を探して もう一度

後悔をしたくなっても遅かった

彼の頭の中で彼女が追いやられるまで

彼女は彼のことを責め続けた

 

新しい物を数えてみよう

歯ブラシ ドライヤー 穴の空いた靴下

木のハンガー 空になったストーブ

靴べら 全てが空白のままの日記帳

 


そして毎度訪れる朝に

石を投げて 粉々に割ってしまおう

彼から全てを奪い去って

一から 始めるように言い聞かせよう


居ないはずの彼と彼女に祝福を

こんな夜には罵声を ほんの少し懺悔を

頭の中だけで生きる全ての人々に

諦めの爆弾と ほんの少しの躊躇いを

 

 

No.595 テフロン!

 

 

彼の顔はいつもよりテカテカしていた

それもそのはず 今朝テフロンを塗り過ぎた

強くなった気分で誰かに怒鳴りつけても

硝子で出来た心臓は変わらない

 


彼は熱くなり 顔の上で目玉焼きを焼いた

パンの上に乗せて食べれば そこそこの味だ

ベーコンは もうこんがり焼けている

怒鳴りつけた誰かは とっくに居なくなっている

 


とりあえずムシャクシャしていた

全てがテフロンのせいで狂ってしまった

時計も 方向も 思考も 視線も

くるくると回りながら一点を指さなかった

 


テフロンを塗らなくても

それほど変わらない一日だったろう

彼は卵を焼きたくて仕方なくなった

今度はスクランブルエッグにしてやろうと思った

 


次の日の朝 彼はシェービングクリームを

グビグビと飲み干して 気絶してしまった

テフロンは洗面台の上で その様子を見ながら

今度はもっとまともな人間に塗られたいと思った

 

 

No.594 無駄なことばかり考えた男!

 

 

彼は頬杖をついていた

右の掌が 右の頬骨を突き破るほど

もう何時間そうしているだろうか

明るかった空が 暗くなるのを感じた

 


思い耽ることの正体について

彼が知ることはなかった

ただ 脳内に住む深海魚の群れに

空想の手を差し伸べようとしていた

 


深海魚は 彼に近付いてきて

「汚らわしい 早くここから出てって!」と言った

彼は少し寂しい気持ちになりながら

他の深海魚が話しかけるのを待った

 


脳内の海水は 涙と同じ味がした

息が詰まる 暗闇が包む 光る魚の群れだけが

彼にとっての光であり 温もりであった

しかし 話しかける深海魚はもういなかった

 


彼は頬杖をやめて

キッチンに行き 漂白剤に手を漬けてみた

ヒリヒリとすると 脳内の深海魚は死に

新しく生まれる涙が 一つ零れて海を作り始めた