No.353 二万円のガム

 

 

男は味のなくなったガムに砂糖をかけて

歯と歯で挟む遊びを続け 前を向いた

彼の行く先には 人々が吐き捨てたガムがあり

それを踏まないように ガムを噛んで歩いた

 


(新しいガムを買うまで このガムで我慢しよう)

そう思った彼の強靭な顎は きっと人骨でも

割れたガラスでもコンクリートでも噛めるだろう

味のなくなったガムは それらより少し柔らかい

 

捨ててあった一番大きなガムを見つけると

一瞬気を抜いてしまい 前方から注意が逸れた

気に入っていた靴の底から 鈍い感触がして

恐る恐る足を上げてみると ガムが張り付いていた

 


彼は落ち込んで しゃがみこんでしまった

ガムを踏んだやつに ガムを噛む資格はない

捨ててあったガムを恨むことも出来たが

そうせずに 彼はただ落ち込んでしまった

 


自暴自棄になって 口から味のなくなったガムを吐き捨て

歩こうとして立ち上がったが 動けなかった

靴底のガムが コンクリートから離れず

彼は立ち尽くしたまま 誰かが来るのを待っていた

 


翌日 昼過ぎに彼の近くを通った老婆がいた

くちゃくちゃと音を立てながら 彼を見つめ

数分睨み合いのようなものをして

老婆はどこかへ消えてしまった

 


夜になり 彼がまた落ち込んでいると

さっきの老婆が戻って来て 彼の口にミントガムを入れた

彼はミントが苦手だったので 吐き捨てそうになったが

老婆の黒目が大きくて怖かったので そうしなかった

 


彼は力を取り戻し また歩き始めた

夜はガムを踏んでしまう可能性が高いが

老婆のミントガムは強力なようで

何故かわからないが 暗闇も明るく見えた

 


朝になる頃に 彼は自分の家に辿り着いた

ミントガムは まだ香りを放って 彼の口の中にあった

家に入ると ソファーに寝そべって眠り込んだ

寝ている間に 老婆が勝手に扉を開けて 入って来た

 


「ほれ お前 金をくれ」という声で 彼は飛び起きた

そういう老婆に 彼は二万円を渡して帰ってもらった

ほっとため息をついて はっと思い出した

二万あれば ガムが何個買えただろうか

 


それからというもの 彼は外に出たくなくなった

もしくは 外に出られなくなった

黒目の大きい老婆のくちゃくちゃという音が聞こえ

外に出たら またミントガムを入れられそうな気がした

 


彼は 味がなくなってもミントガムを噛み続け

とうとう ミントの香りまで消えてしまい

名残惜しそうに 天井の蛍光灯を眺めながら

二万円のガムを 固くなったガムを 噛み続けた