No.312 彼

 

 

疑い深い男は素晴らしい景色を見ても

それは自らの心持ちで変わってしまう儚いものと言った

信じ易い男は小汚い路地裏を見ても

それは自らの目線の高さを合わせれば美しいと言った

 


今回の主人公(彼はとても主人公に見えない)は

そんな二つの景色を見ても 何も感じなかった

彼にとっては素晴らしい景色も 小汚い路地裏も

ブラウン管に映った 静電気を帯びるだけの動画だ

 


指を近付けると モワモワして バチバチくる

黒っぽくなったあとも 少しだけ名残が残る

向こう側に誰か住んでいそうな空間(実際は空間しかない)

そこに入り込もうと歩き続けるが 何も感じていない

 


唯一心躍る瞬間は カフェで働いている女を見る時だけ

都合の良いことに 彼はその時だけ素直になる

美しいものも小汚いものも 彼女を通せば同じ空間になる

彼自身は 自分が彼女を愛しているなどと 考えもしなかったが

 


「いつもありがとうございます また来てくださいね」

彼女が彼に 他の客よりも愛想良く接客しても

「あぁ はい」

としか答えない(やはり 主人公とは思えない)

 


彼女が彼に いくら好意を持ったとしても

進展することの無い二人の仲は ひたすらに平行だ

ただ 彼と彼女は わかっているのかもしれない

交わるよりも すぐ近くを進む方がお互いを長く見つめられると

 


彼を見る彼女の瞳には 優しさと温かさが溢れ

彼女を見る彼の瞳には 孤独と寂しさが混じった

彼は本当に今回の主人公だったのだろうかと尋ねると

彼女は「当たり前でしょ 彼じゃなきゃ誰なの」と答えた