No.340 忘れた男

 

 

閉めたか 閉めなかったか

彼はそのことだけを考える

朝起きて 歯を磨いて 服を着替え

髪をセットして 玄関へ

 


それから それから

曖昧になった記憶を彼が思い出そうとしていると

前から大きな犬がやって来て

ヨダレを垂らしながら彼をじっと見つめている

 


「カチャリという音を聞いていないだろ」

犬は通り過ぎる瞬間に囁く

いや 閉めたはずだ と彼は考えることにして

駅へと向かい 電車に乗り込む

 


肌寒かったので スーツの上着を持って来たが

座れないほどに人がいる電車の中だと 暑過ぎる

彼はワイシャツになって 透けたTシャツを見る

ハードコアパンクバンドのロゴがチラつく

 


上着を着直して 目を閉じて 考えてみる

ドアの感触の後の記憶はない

ポケットに手を入れ 存在を確認したが

そいつが 自分の役割を果たしたのか定かでない

 


忘れた男は 電車を降りる

そしてとぼとぼと歩いて行き 職場に着く

パソコンの前で ふと思い出す

上の階から 人が降りてきて挨拶をした

 


その後だ その後が肝心だ

どうしようもない不安に駆られながら

やらなくてはならないことを済ませる

彼は無事にやり遂げて 会社を出る

 


駅に向かう途中 曲がり角で対向車が見えず

注意するように看板が設置された場所で

忘れた男は 暴走した車に轢かれて

病院へ搬送される途中で 息絶える

 

 

 

ドアの向こうで ひそひそ話す声が聞こえる

「すみません 誰かいますか?」

野良猫たちが 恐る恐る尋ね

返事が無いと 器用に身体を重ね ドアを開ける

 


彼の玄関には サンダルとスニーカーがあり

彼のリビングには 残り物の弁当がある

猫たちはテレビを付けて ニュースを見る

そこに 昨日亡くなった彼の写真が映っている

 


猫たちは 彼に黙祷を捧げる

前足を揃え 後ろ足を曲げる

猫たちは 目を閉じ口を噤んで 数分間経つと

内側からドアを締めて 冷蔵庫を漁り始める