うたもち現代詩

詩を書き連ねる場所

No.231 外套

 

 

明度が極端に低くなったような

影に沈んでいく男がいた

古臭いトレンチコートを来て

夏の暑い中をそそくさと歩いてゆく

 


彼は忘れ去られた人物だった

名前も顔も 一致させるものが無い

真っ黒に塗ったような平面の顔で

点かないマッチを擦っている

 


 酔っ払いにぶつかっても

 彼は静かに沈んでいった

 汚い女に腕を組まれても

 彼は静かに沈んでいった

 


彩度の仕事が疎かになったように

彼は色にまで忘れられた

黴臭いトレンチコートと共に

生ゴミの腐った臭いの裏路地を抜けた

 


彼は通り過ぎるだけだった

身体と精神を 一致させる術もない

真っ黒に塗った吹き出しのように

囁き声は車に泥を跳ねられる

 


 無人駅でも当然のように

 彼は静かに沈んでいった

 静か過ぎるアパートでも

 彼は静かに沈んでいった

 

 

No.230 いいつけ

 

 

幼い頃 彼は父親に言われた

「涙など見せるな」 その言い付け通り

泣くことなく 四十まで生きてきた

笑うことも少なかったように思える

 


彼は女に去られた時も

ただ窓の外に降る雨を見つめていた

その女が死んだ知らせを受けても

ただ消えた蛍光灯を見つめていた

 


父親を特別に思っていた訳でもない

情けない男だった 彼は軽蔑すらしていた

母親を殴り 息子も殴った

それを知りながら 隣人は黙っていた

 


ある晩 彼は酒を買い 

一人で静かに飲んでいた

訪ねて来る客も無く

疲れた瞳に映るものも無く

 


そうして 数時間が流れ

眠りに落ちた彼は ある夢を見た

それは死んだ女の乳房を

赤子のように吸う夢だった

 


よく晴れた朝に起きると

彼は自分が泣いていたことに気が付いた

四十年の孤独が 死んだ女への愛が

母親への思いが そして 父親の面影が

 


いっぺんに溢れ 流れ続け

枕を濡らし 頬に跡を付けた

彼は笑った 朝に鳴く小鳥の音色が美しく

あまりにも清々しい気持ちで

 


彼はやっと父親を許した

「涙など見せるな」その言葉を忘れた

今日という日を無駄にしないよう

一切の約束事を忘れて 彼はまた眠りに落ちた

 

 

No.229 一つの瞳

 

 

彼が変色するたびに

周りの人は笑っていた

赤に 紫に 次第に どす黒く

笑みは消え 人は消えた

 


動物が腐りゆく肉を咥え

虫は卵を産み付けて

彼は穏やかに減っていった

やがて白い骨だけになるまで

 


それでも 彼はまだそこに居た

人々を思い返し 動物を 虫を

全ての物事を思い返し

感情を抱かないことに気付いた

 


もはや 彼の心は役割を終え

一つの瞳のようなものになり

ただ 恨みもせず 恐れもせず

やがて風が砂に変えるまで

 


彼は見続けた 自分が何故死んだか

そんなことにはもう興味も湧かず

ただ見続けた 誰かとの約束のように

最後の一欠片が 運ばれてゆくまで

 

 

No.228 無題

 

 

もやがかかった視界の先に

面倒なものが沢山落ちていて

近付いて 見ようともしないで

蹴飛ばして進むことしか出来ない

 


「誰もが病にかかっているのだろう」

彼はそう言っていた

「私は正気 貴方とは違う」

彼女はそう言っていた

 


とてつもなく大きな山に見えるものが

折り重なる人間の死体だったとしても

蹴飛ばしながら進むことに変わりなく

もやは一向に晴れることはないだろう

 


「誰もが気付いて欲しいと思っている」

彼はそう言っていた

「私は一人 気付かれずにいたい」

彼女はそう言っていた

 


彼も彼女も もう存在していないが

病は相変わらず 何処にでも存在している

蹴飛ばした靴に穴が空いてしまっても

視界の悪さに安心する日々は続いた

 


「誰もが美しい過去を思い返している」

彼はそう言っていた

「私は現在 過去でも未来でもない」

彼女はそう言っていた

 


もやがより濃くなっていき

その色が瞳に張り付いている気がした

彼と彼女が話したことも忘れてゆき

最後には足を止め 進むことはなかった

 

 

No.227 ジッポー

 

 

冷たい感触のジッポーを額に当てた

そして目蓋にも当てた 彼は疲れていた

それでも ある程度の達成感があった

一日を こうして終わらせたのだ

 


次の日の夜 彼は同じようにしていたが

煙草が切れ 買いに出るとバイクが止まっていた

そいつが今にも爆発しそうだったので

気を取られて石につまずいた

 


ジッポーがポケットから落ちた

彼はそれを拾うと 街灯の下で照らし

大きな傷が付いていないか確かめたが

随分使っていたので傷は無数に付いていた

 


爆発しなかったバイクは持ち主を乗せて

音を立てて走り 見えなくなった

彼はいつも以上に足を引きずりながら歩き

煙草を買って すぐに火を付けた

 


風のせいで火が揺れ動いて

煙草から逃げようとするので諦め

一本を箱の中に戻すのに苦戦した

一日を こうして終わらせたのだ

 


彼は 次の日の朝に目覚めると

枕の下にジッポーがあることに気が付いた

煙草はポケットの中に入れてあった

冷えてもいないジッポーを額に当てた

 


窓の方を見ると 部屋に銃を構える男が立っていた

彼の目の前で 毅然とした態度でそうしていた

それでも 彼は煙草を咥え ジッポーで火を付けた

一吸いすると 男が引き金を引いた

 


彼のことをなんとも思っていない瞳で

しばらく見つめ 部屋を出て行った

昨日彼が見たバイク乗りは走り去っていった

一人を  こうして終わらせたのだ

 

 

No.226 museum

 

 

絡まり合う視線 膨れ上がる肖像

擦れ合う息 物言わぬ見物人

コンクリートの上を歩く

綺麗に避け合い 縫うように

 


隠れんぼをしている子供たちがいた

迷子になった子供のアナウンスが聞こえた

紀元前の子供たちの彫刻があった

色彩豊かに殺戮される人々の絵の下に

 


空はパレットだ 雲は絵の具だ

筆で一つずつ 塗りつぶしてしまおう

ここには何も無い 見物人もその子供たちも

全て白くしてしまえば良い

 


そうして 青く澄み渡る空が広がる

白い絨毯の上に彫刻や絵がある

色彩豊かに殺戮される人々の絵の前に

僕はぼんやりと突っ立っている

 


紀元前の子供たちの彫刻は

間違えて白く塗られてしまったらしい

それでも 初めのうちは気付かなかった

そのまま ずっと同じ絵ばかりを見続けた

 


やがてパレットに絵の具が染み出した

それは透明の水となって降り注いだ

白は流れ また人々が歩き始めた

僕は 上手く避け 縫うように去っていった

 

 

No.225 鳥

 

 

荒野に咲く一輪の花もいつか枯れる

彼はそう言って 昔の女を忘れた

海原に浮かぶビンもいつか誰かが拾う

彼はそう言って 新しい女を探した

 


虚しい日々 彼は気付いていたのに

考えを変えることもなく

忘れ続け 探し続けることだけを

生き甲斐にして 死に損なった

 


冷たくなった獣の死骸のように

別の彼は 誰にも心を許すことなく

海底で光を嫌う生物のように

別の彼は 誰にも姿を見せることなく

 


虚しい日々 彼は気付いていたのに

考えを変えるわけもなく

冷え続け 嫌い続けることだけで

生き長らえて 死に損なった

 


男たちを眺める女たちは

哀れみの瞳を向け 侮蔑の微笑みを浮かべた

その隙間を縫って 三人目の彼は

鳥のように羽ばたいて 全てを見下ろした

 


誰も彼の心を読むことは出来なかった

彼は何も言うことなく全てを見透かした

鳥のように羽ばたく女とどこかへ消えた

生きることも死ぬことも同じように感じながら