No.296 一瞥
生気を抜かれて 口を開けたままでいる
彼の苦痛を知る者は 一人もいなくなる
電車に揺られて 乗り過ごした駅の数を
数えながら 項垂れて新聞を頭に乗せる
古い紙の匂いで 誰かに会いたくなった
彼に会うべき人は 一人もいなかったが
それでも誰かと話したくて 新聞をどけ
周りを見渡せば 誰もいない座席がある
座席のほつれを 食い入るように見ては
そのほつれを引っ張り 中身を取り出し
誰かの憂鬱を ほじくり出したいと思い
髪の毛が ぼさぼさになるまで掻き毟る
何かがぽろりと落ちた 記憶の虫がいた
踏みつけると大人しくなった 彼は笑い
次の駅で降り コーヒーを買って飲んだ
記憶に甘えるより 苦味で目を覚ました
彼は苦痛を受け入れた 知らない街の中
壁に貼られた 無数のモナリザの複写に
一瞥をくれてやると 鞄の鉛筆を取って
わざとらしく 走り書きのメモを残した