うたもち現代詩

詩を書き連ねる場所

No.230 いいつけ

 

 

幼い頃 彼は父親に言われた

「涙など見せるな」 その言い付け通り

泣くことなく 四十まで生きてきた

笑うことも少なかったように思える

 


彼は女に去られた時も

ただ窓の外に降る雨を見つめていた

その女が死んだ知らせを受けても

ただ消えた蛍光灯を見つめていた

 


父親を特別に思っていた訳でもない

情けない男だった 彼は軽蔑すらしていた

母親を殴り 息子も殴った

それを知りながら 隣人は黙っていた

 


ある晩 彼は酒を買い 

一人で静かに飲んでいた

訪ねて来る客も無く

疲れた瞳に映るものも無く

 


そうして 数時間が流れ

眠りに落ちた彼は ある夢を見た

それは死んだ女の乳房を

赤子のように吸う夢だった

 


よく晴れた朝に起きると

彼は自分が泣いていたことに気が付いた

四十年の孤独が 死んだ女への愛が

母親への思いが そして 父親の面影が

 


いっぺんに溢れ 流れ続け

枕を濡らし 頬に跡を付けた

彼は笑った 朝に鳴く小鳥の音色が美しく

あまりにも清々しい気持ちで

 


彼はやっと父親を許した

「涙など見せるな」その言葉を忘れた

今日という日を無駄にしないよう

一切の約束事を忘れて 彼はまた眠りに落ちた