うたもち現代詩

詩を書き連ねる場所

No.192 溺れた男

 

明日までの切符を買う

行き先を特定されてはならない

男はスーツで身を固める

満員電車の中 彼は 不特定多数と共にある

 

ゆりかごで眠る赤ん坊を眺め

家に置いてきた財産を数える

張り巡らされた広告を眺め

家に置いてきた支払いを数える

 

特別なことなど何もない

切符を固く握り締めているだけだ

手のひらから血が出るほどに

強く強く握りしめているだけだ

 

駅のホームで 男は吐きそうになった

幼い時に行った海水浴で溺れ

父親に助け出されたことを思い出した

男は俯き ベンチに座った

 

血走った目の裏で 火花が散った

散り終えると 彼は仕事先への経路を忘れた

人の多いカフェに入ってパソコンを開くと

その中のファイルを一つずつ消していった

 

男の顔には 霧吹きされたように汗が滲む

まだ溺れている まだ助からない

呪文のように営業先の名前を唱える

彼はまだ 海水浴場から帰って来れない

 

孤独に陥った その先にあったものは

海底に住む生き物たちの息遣いだけだった

見たことのないそいつらに彼は話しかけた

「こんなはずでは いや 何故ここに 」

 

男は息を引き取った スーツはずぶ濡れだった

二時間 人々は彼の死に気付くことはなかった

彼は溺れてしまった それを止められなかった

彼を助けなかったのは あの日の父親ではないだろう

 

男の行き先を知るのは 彼と彼を待っていた人物

その人物はもう 彼の行き先から自宅へと帰ったことだろう

彼が何故来なかったかなど 気にも留めない

スーツを脱ぎ 風呂に入り 寛いでいるだけなのだから

 

溺れた男の腹の中で 海藻が育っていても

妙な生き物たちが生態系を築いていたとしても

誰も彼のことを調べたりはしない

スーツを脱ぎ 死に横たわる ただの男なのだから