No.94 彼の泉
ふいに美しい声がした
彼はその声の元に歩いた
ふとしたことを思い出した
その日は日曜で空は曇っていた
ガラスに亀裂が走り
「ふとしたこと」以外は忘れ去り
そのガラスの中に入っていた水も
飼っていた魚も何処かに溢れた
美しい声はやはり消えた
彼にはわかりきっていたことだった
そして彼はまた歩き出した
まるで目的地があるかのように
澄んだ泉を見つけた
その水を飲むと彼は泣いた
味はしなかった 何も無かった
星の光を反射して輝く泉に顔を浸した
すると彼は美しい声を聞いた
まるで囁くように まるでなだめるように
まるであやすように まるで実在するように…
彼は泉の中で呼吸を忘れた
それからというもの
彼は何処へも歩かなくなった
そして泉は濁ってゆき
彼と共に腐り果てていった